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​定例行事

​月行事

お経日 - おきょうび -

本縁寺では、毎月1日の、午後2時と午後7時に、「御経日(おきょうび)」と称し、これまでに願い出られた「永代回向(えいたい・えこう)」の各精霊(かく・しょうりょう)とご先祖、また願い出のあった各精霊とご先祖の「お塔婆(とうば)供養」を行なっています。

広布唱題会 - こうふしょうだいかい -

本縁寺で毎月第1日曜日、午前9時から行う「広布唱題会」は、広宣流布をご祈念する法会です。この唱題よって、心を一つにして「南無妙法蓮華経を弘めて人を救う、そのために自分には何ができるのか」をしっかり見定め、またそれを実際に行うことができるように願い、祈ります。

御報恩御講 - ごほうおんおこう -

本縁寺では毎月第2土曜日午後7時に御報恩御講御逮夜・第二日曜日の午後2時、午後7時と毎月13日の午後2時、午後7時に御報恩御講を行っております。今の自分、そして将来の分、それを真剣に考え、本物の幸せを願う人は、仏法で説く原因と結果にもとづいて生活することです。因果の法にもとづいて行動するならば、必ず有意義で価値のある日々をおくることができ、根のある草木のごとく揺るぎがない人生となります。 一方、単なる世間的常識や自身の狭い知識・わずかな体験による生活は、根のない草のように、どこへ流れていくか判らない結果となります。   このことからも、月の一番最初の日、菩提寺の御本尊様に、「今月〇日の試験、何としても合格させてください」「〇週間後の契約、完璧な準備ができますように」などと祈る、この行為にはきわめて大きな意義と功徳があります。つまり、自分自身が〈何としても〉〈絶対に〉との気持ちをいっそう堅固にすることができ、さらに「祈りとして叶わざるなし」との御本尊様の功徳力によって、すべてが正しい形で進んでいくからです。  試験で高い点数をとるためには、そのための勉強が欠かせません。仕事上の重要な成約に 、事前の下準備をしないで臨む人はいません。やはり、試験のために真剣な勉強に励むことです。契約のために周到な準備をすることです。また、それを貫くための〈何としても、高得点をとる〉〈必ず、成約する〉との気概、これはまさに必須です。そしてそのうえで、さらに因果が完璧に整った法そのものである御本尊様に祈る、これでこそ文字どおり「自分にできる、すべてを為し終えた」ということになります。   中国の天台大師も、「衆生に此の機有って仏を感ずる…仏機を承けて而も応ず」〔御義口伝1728〕と述べています。私たちに〈何としても〉〈ぜひ〉というひたむきな姿勢と、強い信心、それがあって初めて、御本尊様、大聖人様が必ず応じてくださる、ということです。  しかも、大聖人様が顕された御本尊様には、 「たとえ、太陽が西から昇るようなことがあっても、法華経を修行する者の祈りのかなわないことは絶対にない」〔趣意 祈祷抄630〕という絶大なお力がそなわっています。  ぜひ、例月の一日参を大事にしてください。

​年間行事

元旦勤行 - がんたんごんぎょう -

新しい年を迎えると、ほとんどの人が「今年こそ、こうしよう」「自分はああしよう」と、何らかの誓いを立てるものです。またそれがあってこそ、新年の意義があります。人間が、他の動物などと異なる点を、動物学者たちがいろいろ論じていますが、「誓いを立てる」ということもその一つだと思います。牛や豚、鶏やカラスなどには、年の初めに誓いを立て、それを目標に日々の生活を送るようすは見られません。それらは、年頭に〈今年は自分の住居を、もっと住みやすくしよう〉とか〈今年こそ、自分の欠点を改めることができますように〉などとは誓わないことでしょう。  人間だから誓いを立てる。すると、誓いを立てないのは、やはり人間らしくないということです。また誓いがあってこそ、人間には進歩や前進があるのです。 まして仏法では、誓いを立てることを誓願(せいがん)を発(おこ)すと言って、これをとても大事にしています。いな、そもそも日蓮大聖人様は「人生は自分の思い、一念、この強さ、深さによってすべてが大きく変わる」〔趣意御書1802〕と教えられています。 このような意味からも、年頭に寺院に参詣し、今年の決意や目標についてご祈念をすることは、人間としてきわめて大事な、重要なことであり、さらにご信徒としても仏法上、誠に立派なことです。

節分会 - せつぶんえ -

本縁寺では、2月3日、午後7時から節分会を行ないます。節分の「節」とは、竹などの節(ふし)のことで、それが転じて、時間や季節などのつなぎ目、変わり目を表現するようになりました。ですから本来は、立春、立夏、立秋、立冬のそれぞれの前日を、みな「節分」と言うのです。このうち、立春の前日だけ、いつしか広く行事が行われるようになりました。 節分には、たいてい「豆まき」をします。誰もが〈自分の所に、ぜひ福を呼び込みたい〉と考え、現在では神社仏閣から各家庭に至るまで、声を張り上げながら「福は内」「鬼は外」と豆まきを行なっています。その際、なかには「福は内」「鬼も内」と言って行なうところもあります。  日蓮正宗では、「福は内」とだけ繰り返して豆まきをします。節分は災難を払い、福を招くための行事ですが、留意すべきは「法華経にもとづいて行なう」ということです。これをまちがえると、額に汗して祈ろうが、豆をまこうが、福徳がそなわることもなければ、願いが叶うこともありません。そのことを、日蓮大聖人様は、「さまざまな祈り方があるが、肝要なのは、法華経の信心にもとづくことである。そうすれば、現在と未来とに願う事柄のすべてが満たされるであろう」〔趣意 道妙禅門御書1041〕と仰せられています。 〔厄年〕節分会にあわせて、厄年のご祈念を願い出る方も多いようです。一般的に、男性は25・42・61歳、女性は19・33・37歳を厄年としています。また、それぞれの厄年を「本厄(ほんやく)」「大厄(たいやく)」と称し、さらにその前年を前厄(まえやく)、その翌年を厄(あとやく)などと言って、前後3年間を忌み嫌う人もいます。確かに昔は、厄年に当たる場合は結婚、妊娠等を避けたり、また「親の厄年に生まれた子は育たない」などと言い、産んだ子をいったん捨て、他人に拾ってもらうなどの行為もされていました。しかし現代では、人生の節目、また身体に変化が生ずる節目、と解釈されている場合がほとんどです。  したがって「厄年」は、いたずらに忌み嫌うものではなく、むしろ正しい信仰にいっそう励み、大きな福徳をさらに積んで、日々を一段と溌剌(はつらつ)としたものとする「好機」、と捉えるべきです。どうしても気になる方は、ご信徒にかぎり、本縁寺受付に申し出れば、住職に祈念してもらうこともできます。  日蓮大聖人様は、 「三十三の厄は転じて三十三の幸いとなる。これを『七難即滅(しちなんそくめつ)・七福即生(しちふくそくしょう)』というのである。年は若くなり、福(さいわい)は重なっていく」〔趣意 四条金吾殿女房御返事757〕 と仰せられ、 「厄年の、災難を払う祕法は法華経につきる。実に、頼もしい。だから大厄については、この日蓮に任せなさい」〔趣意 太田左衛門尉御返事1224〕とも教えられています。

興師会 - こうしえ -

本縁寺では、本年、2月8日午後7時と、2月9日の午前10時から、興師会を行なっています。日蓮大聖人様からのご相承を受け継ぎ、その法を堅固に護り、また正しく後世に伝えて下さった第2祖日興上人に対し、僧俗共ども心からご報恩申し上げ、いっそうの仏道精進をお誓い申し上げる法要です。 大聖人様は「仏法は、相伝によらなければ、知ることはできない」〔趣意 一代聖教大意 92〕と仰せられ、ご自身の入滅に先立ち、数多いお弟子のなかから、日興上人ただ一人を選んで仏法の一切を相伝されました。また実際に、大聖人様のご入滅後には、第2祖日興上人様が一宗の総貫首(そうかんず・一宗を統率する長)となり、また身延山久遠寺の別当(住職)にも就任されたのです。  ところがいつしか、地頭の波木井実長(はきりさねなが)が、大聖人様の教えに背く行為を犯すようにななりました。心を痛められた日興上人が、訓戒を重ねても、実長はまったく改めようとはしません。そこで、大聖人様の「地頭が謗法を犯すならば、日蓮の魂が住むことはない」とのご遺言と「富士山に本門の寺を建立しなさい」とのご遺命にもとづき、身延を去る決意をされたのです。  そして正応(しょうおう)2年(1289年)の春、大御本尊様をはじめとする数々の重宝を護持して身延の山を下(くだ)り、翌3年10月、大聖人様の仏法の根源地として富士の麓(ふもと)の景勝(けいしょう)地に大石寺(大坊)を創建されました。その後、法の一切を、第3祖日目上人に相伝された第2祖日興上人は、元弘3(正慶2、1333)年2月7日、富士の重須(現在の北山)において、安祥としてご入滅されました。御年88才でした。  今、私たちが大聖人の仏法を信じ、本物の幸せ、成仏の境界を得ることができるのは、ひとえに正法正義を守り抜き、総本山大石寺の礎(いしずえ)を築いた日興上人がおられたからです。

御誕生会 - おたんじょうえ -

本縁寺では、2月16日の午前10時と午後7時に、御誕生会を行なっています。御誕生会は、僧俗がそろって、日蓮大聖人様の末法ご出現をお祝い申し上げ、自身の仏道修行へのいっそう精進をお誓いする行事です。 インドの釈尊は、大集経(だいしっきょう)に「末法という時代には、闘いや争いが盛んになり、自身の説いた法の教えや力などの一切が失われてしまう」と告げられています。この末法とは、日本で言えば平安時代の末の、ちょうど藤原氏の権力が衰退し、新たに武士が台頭し始めたころです。  ともあれ、この仏教の「一大危機」とも言うべき時に、「釈尊よりも偉大な人格者が出現し、釈尊の教え・修行・功徳を越える大仏法、大白法を建立し、すべての衆生をことごとく救うであろう」とのご予言が、法華経〔趣意 法華経516〕に説かれています。そのことを、また法華経には、「末法の世に、妙法が広宣流布する」〔趣意 同前539〕とも示されています。しかも、その末法に妙法が広がることについては、中国の天台大師が、 「末法の時は、多くの人が妙法の功徳に浴すであろう」〔趣意 顕仏未来記675〕と述べ、日本の伝教大師も、明確に、「末法という時代が、いよいよ近づいてきた」〔趣意 顕仏未来記 同前〕と、末法に憧れる言葉を残しています。  これらの経文や言葉どおりに出現されたのが、御本仏日蓮大聖人様です。  そのご誕生は、安房国片海(あわのくにかたうみ)の三国大夫(みくにのたいふ)(貫名次郎)重忠を父とし、梅菊女を母として、貞応元(1222)年の2月16日でした。そして建長五(1253)年の春、宗旨を建立され、以来、多くの法難を忍ばれつつ、すべての人に、 「南無妙法蓮華経と唱えれば、すべての罪障を消滅させ、あらゆる幸いを招くことができる」〔趣意 聖愚問答抄406〕とのお題目を唱えさせて、本物の幸せ、即身成仏を得させるために、そのご生涯をかけられたのです。

春季彼岸会・秋季彼岸会 - しゅんき、しゅうき・ひがんえ -

本縁寺では、3月17日午後7時と20日の御前10時に「春季彼岸会(しゅんき・ひがえ)」を9月23日午後2時と午後7時、9月19日から26日は午後2時と午後7時に「秋季彼岸(しゅうき・ひがんえ)」を執り行います。  ある経典には「親に孝養(こうよう)を尽くすは、すべての善い行ないのもととなる行為でり、父母が生きている間は孝養を第一とし、長生きするように身体(からだ)を養い、心を育(はぐく)んであげることです。亡くなったあとは、追って孝養を修すべきである」〔報恩経〕とあります。 そもそも、子が胎内(たいない)にいる間の、母親の辛さは言葉には尽くしがたいものがあります。しかも、お産が近づけば、腰が破れそうになり、あまりの激痛に息が止まりそうになるのです。やっと子が生まれても、子自身では何もできず、ただ泣いて、叫んで、親に助けを求めるばかりです。足はあっても立てず、手はあってもつかめず、目があっても見分けられず、耳があっても聞き分けられず。鼻があってもかぎ分けられない、まるで形だけのようなものです。それを親は、きめ細かに面倒をみ、丁寧(ていねい)に物事を教え、一人前の社会人に育て上げるのです。  ところが、その親が老(お)いると、子供から疎(うと)んじられ、蔑(ないがし)ろにされがちです。特に、自分が亡くなってからの供養もしてもらえないという、寂(さび)しさ、辛(つら)さは例えようもないものです。そのことを、日蓮大聖人様は、 「父母が地獄・餓鬼・畜生などに堕(お)ちて、苦しんでいるにもかかわらず、まったく供養をしないで、自分たちだけ着たい物を着、食べたいものを食べ、日常の楽しみに耽(ふけ)っている子に対して、亡き父母はどれほど羨(うらや)んだり、恨(うら)だりしていることであろう」                                〔趣意 四条金吾殿御返事四七〇〕と仰せられています。  ともあれ、先祖も、亡くなった父母や兄弟姉妹も、親戚も、大聖人様の妙法にもとづき、真心込めて、そして真剣に、追善供養することが大切です。大聖人様は、「法華経を読み、南無妙法蓮華経と唱えて追善供養をする時、題目の光が無間地獄に至り、そこにいる者もまちがいなく成仏することができる。たとえ地獄に堕(お)ちて苦しんでいたとしても、孝養の者が正しい仏法によって追善供養(ついぜんくよう)をするならば、やはり妙法の力によって成仏できるのであり、そのことに変わりはない」〔趣意 御義口伝一七二四〕と仰せです。   大聖人様の妙法にもとづく供養こそ、亡くなった父母や先祖を成仏させ、みずからも孝養などの功徳を存分に受けて一家の絶対的な幸せを築くことにつながるのです。決して、亡くなった父母などから、羨(うらや)ましがられたり、恨(うら)まれたりしてはなりません。 やはり私たちは、お彼岸やお盆、命日など、折々に必ず、唯一の正法、南無妙法蓮華経による追善供養を心がけましょう

盂蘭盆会 - うらぼんえ -

本縁寺では、8月15日 午後2時と午後7時,8月11日から16日は午後2時と午後時にそれぞれ盂蘭盆会を執り行います。仏説盂蘭盆経(うらぼんぎょう)には、次のように説かれています。   釈尊の十大弟子のひとり目連(もくれん)が、仏道修行によって得た神通力によって、亡くなった母を探し求めると、母は餓鬼道(がきどう)に堕(お)ちていました。生前に犯した罪により、鳥の毛をむしったような皮膚、丸石を並べたような胸の骨、鞠(まり)のような頭、糸のような喉、そして大海のようなお腹をして苦しんでいたのです。 しかも手を合わせ、食べ物を乞うをする母の姿に、目連は思わず涙を流しました。目連が急いで神通力で飯を送ると、母が口に入れようとした瞬間、炎となって燃え上がったのです。目連が慌てて水をかけると、今度は薪(たきぎ)となって、炎が母に襲いかかりました。〈自分の力で、救うことはできない〉と思った目連は、すぐに釈尊のもとへ走り、ことの次第を申し上げました。  すると釈尊は、次のように語ったのです。『お前の母は罪深い。よってお前一人の力で救うことはできない。いや、たとえ諸天善神であっても、母を救えないであろう。どうしても救いたいのであれば、七月十五日に十方の聖僧(せいそう)を招き、百味(ひゃくみ)の飲食(おんじき)を供養しなさい。そうすれば、母の苦を救えるであろう』 こうして、目連は釈尊の教えどおりに法会(ほうえ)を行ない、母の青提女を餓鬼道の苦しみから救うことができました。   この盂蘭盆経にもとづいて、広く「お盆」の法要が行なわれるようになりました。ここで留意すべきなのは、目連は自分の力で母を救おうとしましたが、それがかえって母を苦しめてしまったということです。言い換えると、仏様の正しい教えにもとづいた方法で供養しなければ、亡くなった方々を苦悩から救うことはできないということです。 釈尊は「あらゆる経典の中で法華経が第一である。法華経は諸経の王である」〔法華経五三五趣意〕と断言されています。また、日蓮大聖人様は「法華経と申すは一切衆生を仏になす秘術まします御経なり」〔法蓮抄八一四〕と仰せられています。  これらのご文から、私たちや先祖が何によって真に救われるかは明白です。私たちは折々、この正しい法華経、妙法による供養を心がけてまいりましょう。

​御難会(竜口法難会) - ごなんえ(たつのくちほうなんえ) -

御難会は文永8年9月12日、宗祖日蓮大聖人の竜口(たつのくち)の法難にて発迹顕本されたことに対してご報恩申し上げる法要です。 大聖人のご一生は「日蓮ほどあまねく人にあだまれたる者候はず」(新編739)とおおせられるように、「大難四ヵ度、小難数知れず」といわれ、竜樹(りゅうじゅ)・天親(てんじん)・天台(てんだい)・伝教(でんぎょう)等の仏教の大弘通者も肩を並べることができない大法難の連続でした。中でも9月12日の竜口の法難は四ヵ度の大難中、とくに仏法上、重大な意義をもつ法難です。   そもそも、この竜口法難は、第1に大聖人の邪宗折伏、第2に北条氏の大聖人に対する忌諱、第3に幕府への直諌(直接会っていさめること)が原因ですが、ことにこの幕府への直諌が直接の原因となって起きました。   この前代未聞の極刑に処せられようとした頸(くび)の座を契機として、大聖人のおん身の上に一大変化が起きたのです。  大聖人は文永8年9月12日夜半、鎌倉をお出になり、丑の刻に竜口において頸をはねられようとしました。しかし、不思議な光り物が江の島の彼方から北西の方角に飛来し、太刀取りの眼がくらみ、ついに頸を切ることができませんでした。  この子丑の時というのは仏法上深い意義をもっています。子丑は陰の終り・死の終り、寅は陽の始め・生の始めを意味しますが、釈尊を初めとする多くの仏様もこの丑寅の時刻に成道(仏様となること)したのです。すなわち、文永8年9月12日の子丑の刻は、大聖人の凡身としての死の終りであり、寅の刻は大聖人の御本仏としての生の始まりなのです。この時大聖人は、凡夫のお立場から末法の御本仏としての真実の姿を顕わされたのです。  そこで、毎年9月12日に御難会法要をおこない、大聖人に対し仏恩報謝(ぶっとんほうしゃ)申し上げると同時に、未曾有の迫害とそのご苦労を偲び奉り、広宣流布(こうせんるふ)を誓うところに御難会法要の意義があります。

​御会式  - おえしき

御会式とは、宗祖日蓮大聖人が弘安五(1282)年十月十三日に御入滅あそばされ、滅不滅のお姿を示されたことをお祝いする儀式です。本宗においては、御霊宝虫払大法会と共に、二大法要の一つとなっています。 御会式について、世間では大聖人の御命日の法要ぐらいに考えています。しかし大聖人は、末法万年の闇を照らし、濁悪の衆生を救済したまう御本仏にましますのであり、その御入滅は不滅の滅にして、三世常住のお姿を示されたものと拝するのです。したがって、御会式は故人に対する追善供養の法事などではなく、日蓮正宗僧俗一同が御本仏の三世常住をお祝いし、御報恩申し上げる儀式なのです。 会式とは、合同で説法や仏事を営む法会の儀式の意で、本宗においては大聖人の御入滅の日に奉修する最も重要な法要を「御会式」と称し、総本山におけるお会式は古来「御大会-おたいえ」と称されています。

支部登山 - しぶとざん -

「登山」とは、総本山大石寺へ参詣することをいい、毎年、寺院に所属する講員信徒が御住職と共に総本山大石寺へ参詣します。

​日蓮正宗法華講本縁寺支部広報部™Ⓡ
日蓮正宗法華講本縁寺支部広報部™Ⓡ
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